マトリョーシカと姫だるまのリンク



マトリョーシカと姫だるま リンク


武蔵野美術大学の芸術祭で開催予定の「マトリョーシカ展」の主催の方から相互リンクのお申し出と参加のご案内をいただきましたので、リンクのページに加えさせていただきました。

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10月31日から11月3日まで開催予定。学校・学年・学科を越えて合同展示とのこと。いろんな切り口の作品が登場しそうで、今から楽しみですね。

独自のマトリョーシカ作品を制作されている方、展示などを企画されている方はぜひご一報ください。できるかぎりこのブログでご紹介させていただきたいと思ってます。とくに「日本を起源として生まれたマトリョーシカ」をテーマにした作品が出てきたらおもしろいな、と思ってます。



それから、前の記事「日露戦争と姫だるま〜マトリョーシカ」でメールをご紹介させていただいた愛媛・松山のNPO団体の方からも、リンクの許可とあわせて次のようなメールもいただきました。


稲村様が補足してくださったように、ロシアとは関わりの深い松山ですし、今年11月からは、いよいよNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』が始まりますので、あらためてその関係に関心も集まろうかと思います。

時機を見て面白いことが(「姫だるま作り体験」とか・・・)ご一緒できたらと思いますので、今後ともよろしくお願いします。

姫だるま〜マトリョーシカTシャツ、早速、2色とも購入しました!!


松山まつり IKEMENREN.COM


「姫だるま」といえば、近頃では「水曜どうでしょう」で取り上げられたという大分のものが脚光を浴びているようですが、マトリョーシカのルーツとその歴史から、このサイトでは特に愛媛・松山の姫だるまに注目してます。

いまのところ、リンクのページでもマトリョーシカとロシアについてのサイトばかりになってしまってますが、「姫だるま」に関係するコンテンツをお持ちの方も、ぜひお気軽にご連絡いただければ幸いです。


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相互リンクのお申し込みやマトリョーシカと姫だるまに関する情報などはこちらまでお寄せください。お待ちしてます。

稲村光男抒情画工房 mail form



"マトリョーシカと姫だるま"
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日露戦争と姫だるま〜マトリョーシカ



愛媛県松山市を拠点にNPOを組織してまちづくり活動に取り組んでおられるという方から、次のようなメールをいただきました。



足元の宝を磨きながら全国に発信することで地域を活性化しようと日々活動していますが、たまたま姫だるまのことを調べていてマトリョーシカと姫だるまのサイトに辿り着きました。

ロシアと松山はご存知の通り、縁深い土地柄でありますが、まさか姫だるまとマトリョーシカに関わりがあるだなんて思ってもみませんでした。素敵な話ですよね。

ただ昨今においては、当地でも、姫だるまの存在は・・・。残念ながら若い世代はその存在すら認識していないかも知れません。

姫だるま〜マトリョーシカTシャツ」を身に着けさせてもらい、これをきっかけに今一度、松山でも姫だるまに光を当ててみようと思います。

姫だるま〜マトリョーシカTシャツ




姫だるまのふるさと愛媛・松山については特別の関心を持っていたので、地元の方からこのようなおたよりをいただいて、とてもうれしく思いました。

おたよりにあるロシアと松山市のご縁は、日露戦争当時、日本で初めてロシア兵捕虜収容所が設けられたことからはじまり、100年を経たいまでも異国の地で生涯を終えたロシアの人々を埋葬した墓地は手厚くおまつりされているとのことです。

戦争と捕虜収容所…、と聞いただけで暗く悲惨なイメージを持ってしまう方もいるかもしれませんが、当時約3万人に過ぎなかった松山市民の方々は、多いときには4,000人を超えたといわれるロシア兵捕虜の人々をお遍路さんをもてなすように迎え入れ、その記憶から以後ロシア兵たちは投降してくる際に「マツヤマ」を合い言葉にしたと言われるほど、たくさんのいい話が残っているのです。

その当時のようすを、イギリス人写真家ハーバート・G・ポンティングは次のように描写しています。


 プラットホームに立っていると、そこにロシア軍の捕虜を満載した列車が到着した。乗っていた捕虜の全員が戦争から開放された喜びで、大声で叫んだり歌を歌ったりしていた。・・・反対の方向から別の列車が入って来た。それは日本の兵士を満載した列車で、兵士達は前線に行く喜びで同じように歌を歌っていた。

 ロシア兵と日本兵はお互いの姿を見るや否や、どの窓からも五、六人が頭を突き出して、皆で歓呼の声を上げた。ロシア兵も日本兵と同じように懸命に万歳を叫んだ。列車が止まると日本兵は列車から飛び出して、不運?な捕虜のところへ駆け寄り、煙草や持っていたあらゆる食物を惜しみなく分かち与えた。一方ロシア兵は親切な敵兵の手を固く握り締め、その頬にキスしようとする者さえいた。私が今日まで目撃した中でも、最も人間味溢れた感動的な場面であった。

(中略)松山で、ロシア兵(捕虜)たちは優しい日本の看護婦に限りない賞賛を捧げた。寝たきりの患者が可愛らしい守護天使の動作の一つ一つを目で追うその様子は、明瞭で単純な事実を物語っていた。

 何人かの勇士が病床を離れるまでに、彼を倒した弾丸よりもずっと深く、恋の矢が彼の胸に突き刺さっていたのである。ロシア兵が先頃の戦争で経験したように、過去のすべての歴史において、敵と戦った兵士がこれほど親切で寛大な敵に巡り合ったことは一度もなかったであろう。それと同時に、どこの国の婦人でも、日本の婦人ほど気高く優しい役割を演じたことはなかったのではあるまいか。

外国人から見た日本と日本人(1)



このとき松山捕虜収容所のロシア兵が愛媛県の郷土玩具の一つである姫だるまをまねて作ったものがマトリョーシカ人形の起源であるという説は、日露戦争よりも前の1900年パリ万博に出品されたマトリョーシカが銅メダルを受賞している事実と矛盾するとして否定されてしまっています。

けれど、日本の入れ子人形をルーツとして生まれたばかりのマトリョーシカに、「可愛らしい守護天使」と写った松山の看護婦さんたちと、その地で愛されていた姫だるまのイメージが「日本」の印象として投影されるようになった、ということならば十分あり得るおはなしだと思うのです。

起源説としては年代的に矛盾がありながら、マトリョーシカのふるさととしての日本を思うとき、箱根の入れ子細工や七福神こけし人形よりもむしろ愛媛の姫だるまと絵的にかわいらしいイメージが共通しているように見えるのは、そんな背景があったからではないでしょうか?

いつの間にか姫だるまの存在が忘れられつつあるのと同じく、戦争で敵味方に分かれながらも「最も人間味溢れた感動的な場面」をたくさん残したちょっと前の日本人の感受性がどこかへ消えていってしまいそうな気がして、とても残念です。

姫だるまとマトリョーシカのつながりを思い出すことで、もう一度そんな感覚を取り戻すことができたらいいな、と思います。


↓こちらでは、むかしの日本のきれいで貴重なカラー動画にのせてハーバート・G・ポンティングの回想もご覧いただけます。



ちなみに、この動画の冒頭にでてくるラダビノード・パール判事へのトリビュートTシャツが、「姫だるま〜マトリョーシカTシャツ」に続く2作目のコラボレーション作品として日本Tシャツ・ブランド「昭和元禄」より発売になりました。

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「パール判事の日本無罪論」は、ちょっと前の日本人のことを思うすべての人にまず読んでみてほしい大切な一冊ですので、ぜひ一度読んでみてください。

リメンバー・パール判事 - remember justice radhabinod Pal -



"マトリョーシカと姫だるま"
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マトリョーシカと入れ子のこけし



今日はお散歩がてら、うさぎの狛犬で知られる調神社の骨董市へ行って、マトリョーシカのルーツになったと言われる入れ子細工の七福神こけしを買ってわが家へお迎えしました。

うしろに写っているのは「姫だるま〜マトリョーシカ・トートバッグ」です。

売ってくれたおじさんは、「これがね、ロシアのマトリョーシカの元になったんだよ」と説明してくれました。



"マトリョーシカと姫だるま"
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姫だるまと神功皇后



マトリョーシカと姫だるま」というタイトルのサイトなのにマトリョーシカをめぐるお話ばかり多くなってしまっていたので、このへんでマトリョーシカ人形のルーツとも言われる姫だるまの、そのまたルーツにまで迫ってみたいと思います。

姫だるまといえば、愛媛県旧国名で言うと伊予の国・松山、古代から名湯として知られていた道後温泉地方の名産品です。

愛媛県物産観光センターなどでは、その起源について次のように説明されています。


姫だるまは昔神功皇后道後温泉に御滞在になり、そこで御懐妊され、筑前国において応神天皇を出産されました。この帝の真紅のまわた包みの可憐な幼児姿を記念して追想し奉り作られたのが、姫だるまだと言われています。


この説明を見てちょっと気になってしまうのは、ぼくたちを含めて戦後教育で育った世代に、神功皇后という人物がどういったお方だったか、すぐにイメージできる方はそう多くはないのではないでしょうか?ということです。

神功皇后は、「日本書紀」では気長足姫尊、「古事記」では息長帯比売命(ともに「おきながたらしひめのみこと」)と記載されている皇女で、ヤマトタケルノミコトの御子とされる人皇第14代・仲哀天皇の皇后となり、住吉大神の託宣を受けて九州から朝鮮半島へ出兵し新羅百済高句麗の三国に朝貢を誓わせたのち、応神天皇を出産されたという、さまざまな伝説に彩られた女性です。

シャーマニズムの面影を色濃く宿した神秘的で勇敢な巫女王として、あるいは日本のジャンヌ・ダルクとでもいうべきヒロインだったので、明治になってわが国ではじめて紙幣に採用された女性の肖像画にもなりました。



この想像上の肖像画は、明治天皇御真影でも知られるイタリア人技術者エドアルド・キヨッソーネによるもので、どちらかというと西洋風の美女に描かれていますが、あるいはエカチェリーナをはじめとする女帝の時代だった17世紀ロシアのイメージが重ね合わされていたのかもしれません。

けれど、そんなふうにして広くひとびとに親しまれていた神功皇后のことが、いまでは一般にほとんど耳にすることもなくなってしまいました。

そのわけは、戦後教育の日本神話の否定に加えて、教科用図書検定基準に定められている近隣諸国条項などに象徴される歴史のタブー化のせいにちがいありません。

ちょうど100年前、日本と朝鮮半島はひとつの国としての歩みをはじめ、ともにいろんなものを築き上げ、ともに戦いもした、ということさえ言うことがはばかられてしまっている中で、古代において「三韓征伐」をしたとされる侵略者などは存在自体抹殺されてしかるべき、と思われているのかもしれません。

神功皇后という存在が実在したか、学術的にその伝説がどう読み解かれるべきか、ということは冷静に探求されるべきだと思います。

それにもまして、1000年以上の長きにわたってわが国で親しまれ、たくさんの共同幻想のよりどころとなった高貴な女性の幻影を政治的なしがらみで消し去ってしまうことには、文化的に取り返しのつかない喪失感を感じてしまいます。

そして、その共同幻想のひとつとしての「姫だるま」神功皇后起源説。

いまや大人気のロシアのマトリョーシカ人形にくらべると、そのお母さんであったはずの「姫だるま」は、どこか細々と受け継がれながらも消えつつある郷土民芸といった趣が感じられて、とても残念な気がしてしまうのです。

それはぼくらが持っていた大切なものを、どこかで失ってしまったからなのかもしれません。




"マトリョーシカと姫だるま"
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マトリョーシカのお箸箱



この「マトリョーシカと姫だるま」のサイトをはじめて、「姫だるま〜マトリョーシカTシャツ」を着て人に会うようになってから、みんなにすっかりマトリョーシカ好きと認定されてしまいました。

それで先日、たて続けにマトリョーシカ・グッズのプレゼントをいただいてしまったのですが、なぜかどちらもマトリョーシカが描かれた箱入りのお箸セットだったのです。

雑貨屋さんへ行くとあいかわらずマトリョーシカブームで、とにかくなんでもマトリョーシカにしてしまえ!という、ちょっと安易な風潮もありますが、このお箸箱はとても気に入ってます。

まず、「容れ物」になっているという点でマトリョーシカ・グッズとして合格。

それに、中に入っているのが何より日本的な「お箸」ということで、日本をルーツとして生まれたマトリョーシカをテーマにしたこのサイトにも結びつくので、取り上げてみました。

マトリョーシカおはしセット
グラディー(GLADEE) マトリョーシカおはしセット


このお箸箱を持って、毎日お弁当をいただいてます。




"マトリョーシカと姫だるま"
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マトリョーシカとイースターエッグ

イースターラビット




日本の姫だるまやこけし七福神などの入れ子細工をルーツとして生まれたと言われるマトリョーシカ人形ですが、ロシアで最初に制作したのはモスクワ郊外に住む、S.I.マーモントフ夫人と画家S.V.マリューチンとザゴルスクのろくろ師V.ズビョズドチキンだったという説があります。

S.V.マリューチンというひとは画家としてもともと活躍していて、V.ズビョズドチキンと入れ子の形状の木製イースターエッグなどを作っていたそうです。

スラブ諸国の民間伝承では新しい生命のシンボルとして根強く愛されてきたイースターエッグ

特にマトリョーシカが誕生した19世紀末から20世紀の初めにかけては、ロマノフ朝帝政末期の宮廷にも豪華絢爛な宝飾が施されたインペリアル・イースター・エッグが作製・献上され、イースター・エッグ文化のピークでもあったことが偲ばれます。

こうして古くからロシアで親しまれてきた復活祭の卵の造形を素地として、日本の姫だるまのイメージ、入れ子細工の人形という発想がコラボレーションして産み落とされたのがマトリョーシカだったのかもしれません。



卵を持つ春のうさぎ by 葉子の万年少女人形館


ぼくは、わが国でクリスマスの行事が外来宗教の降誕祭という意味合いを越えて広く行われている理由を、その下地に冬至に祖霊を迎え祀るる固有信仰があったからだと信じています。

薬箱手帖 「クリスマス・ツリーと雪の結晶のブローチ」

それと同じように、イースターの行事もまた必ずしも耶蘇教の復活祭という意味合いではなく、あるいはユダヤ教過越の祭りよりも古くからの春の祭りで、豊穣のしるしとして卵を飾る習わしも多神教とアミニズムが普遍的だった時代から伝えられてきた習俗だったと思われます。

そういえば、「イースター」という英語の呼称もゲルマン神話の春の女神「エオストレ(Eostre)」の名前、あるいはゲルマン人の用いた春の月名「エオストレモナト(Eostremonat)」に由来しているそうです。

ローマ時代、東方からの民族の大移動にともなってさまざまな文化が混交してできあがった春の祭り。

もうひとつ、ぼくは以前、折口信夫博士の「容れ物のなかにたましいが宿る」という信仰についての考察から、マトリョーシカのイメージの遥かな祖型の誕生を探ってみたことがありました。

薬箱手帖 「紀元節 折口信夫 マトリョーシカ」

折口信夫はその「霊魂の話」という論文で、「石こづみの風習」というものが刑罰ではなく復活の儀式であった時代があったことを断定しています。つまり、「石」を容れ物としてたましいが復活するという信仰、ただし現実に石の中に入ることは出来ないので石を積んだ、ということ。

そしてそういった信仰について、「朝鮮には、卵から生れた英雄の話がたくさんある。日本と朝鮮とは、一部分共通して居る点がある。」という点から、北方由来のシャーマニズムとの関連性をも示唆しています。

復活の儀式とたましいの容れ物。卵生の神話。半島経由でのユーラシア大陸北方との文化のつながり。

もしかすると、大陸を大移動したスラブ民族と、極東の島国に固有信仰を保ち続けた日本民族と、遥かな古代にどこかで同じルーツを持っていたのかもしれません。

それが時を越えて、かわいいマトリョーシカ人形のかたちで復活したのだとしたら?

あまりにもとりとめのない想像かもしれませんが、そんなふうに想うと、この異国の人形たちがもっと懐かしいもののような気がしてしまうのです。






"マトリョーシカと姫だるま"
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マトリョーシカ・アンサンブル Mable



以前とりあげたマトリョーシカテルミンが合体したかわいくて不思議な楽器「マトリョミン」。

マトリョミン QT+教則DVDセット

http://d.hatena.ne.jp/matryoshkadoll/20081215/1229361611


今日4月8日、世界的テルミン奏者の竹内正実さん率いるMableによるマトリョミン合奏のCDが発売されました。

曙光
曙光
  • アーチスト: Mable

黒い瞳」「ともしび」といったロシア民謡から日本の「さくらさくら」、「2001年宇宙の旅」でおなじみリヒャルト・シュトラウス交響詩ツァラトゥストラはかく語りき」から時代劇メドレーまで、多彩な選曲の中に、「グッド・バイブレーション」も含むビーチ・ボーイズ・メドレーも入っています。



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