姫だるまと神功皇后
「マトリョーシカと姫だるま」というタイトルのサイトなのにマトリョーシカをめぐるお話ばかり多くなってしまっていたので、このへんでマトリョーシカ人形のルーツとも言われる姫だるまの、そのまたルーツにまで迫ってみたいと思います。
姫だるまといえば、愛媛県、旧国名で言うと伊予の国・松山、古代から名湯として知られていた道後温泉地方の名産品です。
愛媛県物産観光センターなどでは、その起源について次のように説明されています。
姫だるまは昔神功皇后が道後温泉に御滞在になり、そこで御懐妊され、筑前国において応神天皇を出産されました。この帝の真紅のまわた包みの可憐な幼児姿を記念して追想し奉り作られたのが、姫だるまだと言われています。
この説明を見てちょっと気になってしまうのは、ぼくたちを含めて戦後教育で育った世代に、神功皇后という人物がどういったお方だったか、すぐにイメージできる方はそう多くはないのではないでしょうか?ということです。
神功皇后は、「日本書紀」では気長足姫尊、「古事記」では息長帯比売命(ともに「おきながたらしひめのみこと」)と記載されている皇女で、ヤマトタケルノミコトの御子とされる人皇第14代・仲哀天皇の皇后となり、住吉大神の託宣を受けて九州から朝鮮半島へ出兵し新羅・百済・高句麗の三国に朝貢を誓わせたのち、応神天皇を出産されたという、さまざまな伝説に彩られた女性です。
シャーマニズムの面影を色濃く宿した神秘的で勇敢な巫女王として、あるいは日本のジャンヌ・ダルクとでもいうべきヒロインだったので、明治になってわが国ではじめて紙幣に採用された女性の肖像画にもなりました。
この想像上の肖像画は、明治天皇の御真影でも知られるイタリア人技術者エドアルド・キヨッソーネによるもので、どちらかというと西洋風の美女に描かれていますが、あるいはエカチェリーナをはじめとする女帝の時代だった17世紀ロシアのイメージが重ね合わされていたのかもしれません。
けれど、そんなふうにして広くひとびとに親しまれていた神功皇后のことが、いまでは一般にほとんど耳にすることもなくなってしまいました。
そのわけは、戦後教育の日本神話の否定に加えて、教科用図書検定基準に定められている近隣諸国条項などに象徴される歴史のタブー化のせいにちがいありません。
ちょうど100年前、日本と朝鮮半島はひとつの国としての歩みをはじめ、ともにいろんなものを築き上げ、ともに戦いもした、ということさえ言うことがはばかられてしまっている中で、古代において「三韓征伐」をしたとされる侵略者などは存在自体抹殺されてしかるべき、と思われているのかもしれません。
神功皇后という存在が実在したか、学術的にその伝説がどう読み解かれるべきか、ということは冷静に探求されるべきだと思います。
それにもまして、1000年以上の長きにわたってわが国で親しまれ、たくさんの共同幻想のよりどころとなった高貴な女性の幻影を政治的なしがらみで消し去ってしまうことには、文化的に取り返しのつかない喪失感を感じてしまいます。
そして、その共同幻想のひとつとしての「姫だるま」神功皇后起源説。
いまや大人気のロシアのマトリョーシカ人形にくらべると、そのお母さんであったはずの「姫だるま」は、どこか細々と受け継がれながらも消えつつある郷土民芸といった趣が感じられて、とても残念な気がしてしまうのです。
それはぼくらが持っていた大切なものを、どこかで失ってしまったからなのかもしれません。
"マトリョーシカと姫だるま"
posted by 稲村光男抒情画工房